
なぜ人は成長を求めるのか?
生きることと成長が結びついていた時代
かつての暮らしは「成長の喜び」に溢れていました。
それは仕事が分業化されていなかったからです。
それまでの時代、学ばなければいけなかったのは、獲物を追跡し、仕留める技術だけではありません。
環境から天候を読み、水を探す。縄を編み、器を作る。自然素材で工夫して家を建てる。絵を描いたり、占いをしたりする。
このように、生涯学んでも学び尽くせないような、たくさんの驚きがそこにはありました。
狩猟生活まで遡らなくても、ほとんどの人が会社員として働くようになる戦前までは。
生きれば生きるほど学んでいくことは多く、生きることが成長に直接結びついていました。

なぜ人は成長を求めるのか?
神経科学者のグレコリー・バーンズによると、ドーパミンがたくさん分泌されるのは、予想外の何かに出会ったり、今までにしたことのない行動を取るときだと述べています。
つまり、「新しさ」を感じたときということです。
グレコリーはドーパミンが新しさに反応することについて、環境についての新たな情報を手に入れることが何より生存のために役立つからではないかと推測しています。
心理学者のホワイトも、こんな主張をしました。
「人は、自分が置かれている環境を情報を集め、環境に働きかけられる能力を高めようとする。そして自分が環境のために何ができるのか、自らの有能さを確かめたいという本能がある。」と。
ナスDさんのサバイバル生活や、映画の『キャスト・アウェイ』などの無人島への漂流ものにワクワクしたことがある人ならこの本能はよくわかるのではないでしょうか。
ホワイトはこの本能を「コンピテンス」と名付けました。
移動生活をしていた1万年前なら、ドーパミンの満足感やコンピテンスの本能は存分に感じることができたでしょう。
定期的に家が変われば、その都度新しい環境を探索する楽しみもあるし、その環境をコントロールしていく楽しみもあります。
人の好奇心や成長を求める気持ちというのは、おそらくこういった本能のようなものから発生しているのです。

成長を意図的に求めなければいけない時代
現代人にとって成長の機会は、祖先たちと違い意図的に求めなければいけないものになっています。
食べられる雑草を調べていると、道路脇に生えている草をまじめに見るようになり、風景が変わる。
左官や床貼りのワークショップに参加すると、お店のリノベーションの方法に目が行き、モバイルハウスを作ろうと建築をかじりだすと、お寺の見方が変わる。
ゴムボードで川下りを経験すると、車窓から見える川を「どうやったら下れるか?」という目線で見るようになる。
このように、自分の関心のレイヤーを増やすと、そのレイヤーで受信できるものが増えて、以前とは違った世界が立ち現れます。
しかし、食べられる草を見分けたり、家を建てたり、川下りできたりというのは、かつてなら生きているだけで自然に身につけられていた知識や体験ですが、現代は違います。
成長の機会を意図的に求めなければいけません。
もし、自分なりの成長の機会を開拓していかなければ、世間に用意されている「お仕着せ」の楽しみしか感じなくなってしまいます。
遊園地もスマホのゲームも楽しい。
それは誰でも楽しめるように設計されているからです。
しかし、「こうやって楽しんでくださいね」という楽しみ方が決まっているものは、いつしか飽きてしまいます。
自分ならではの成長の機会を習慣にし続ける。
そして自分自身を「新しい」ものとして感じられること。
それは人の本能を満たすことなのです。
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